社会を変えたいのに、社会を変えようとしないとは??
初っ端から混乱させる感じになっちゃったけど、理由はあります。
私が少し前に執筆させていただいた機関誌に、すごく興味深い内容が書かれていたので、それについてお話するね。
たとえば、学校でメンタルヘルスリテラシー教育をして、精神疾患自体に対する知識や態度は向上するけど精神疾患の当事者に対する態度態度は、むしろ悪化させる研究報告もあるそうで、
また、最近よくあるバーチャル機器を用いた症状の疑似体験。これも、理解や共感が期待される反面、当事者に対する否定的態度が大きくなる懸念が示されているそう。特に社会的距離については、症状の疑似体験後に悪化する可能性が報告されているとのこと。
本来であれば、日常の生活の中で学んでいくのが望ましい。だって、関わり方を自分で学んでいくことになるから。
障害について学ぶことが悪いと言ってるわけじゃないよ。でも、座学で障害の何が学べる?学校教育から障害のある人と学校を分けられて、生活のなかで学ぶ場を奪われてる。発達障害って診断されてる子どもも増えたけど、学校では生きづらいだろうなって思う。いまだ全体主義だから。社会よりも学校が遅れてるから。
障害をもっていたとしても人なんだよ。人との関わりなんだよ。この障害を持ってる人にはこう!って単純なものじゃない。
理解する人は理解するし、理解できない人は理解できないよ。理解を強要しない。理解できない人をなんとかしようとしない。理解できない人はダメとかじゃない。
いまの教育は、評価があるのがおかしいと思う。うまく伝えられるかわからないけど、できないからダメ、じゃないんだよ。1+1=の答えがわからない子がいたとする。もしかしたらもっと深いところでわからないって言ってるのかもしれないじゃん。そうすると、その子に「できない」レッテルを貼ると、その子のチカラを奪っちゃうことに繋がるんだよ。
できることがいい、できないことが悪い、理解できるのがいい、理解できないのが悪い、みたいになっちゃう。二元論。理解の押し付けかなって。
じゃあ、どうするかって?コミュニケーションだよ。私たちが言葉を取り戻す。
社会を変えようとしない。私たちが言葉を取り戻せばいいだけ。
私は昔から怒られてばっかりで、理不尽なことも多くて、お腹の底に言葉になり損ねた想いをいっぱい溜めてきちゃってた。それが溢れ出ないように胸の辺りに鉛のような塊まで作って塞いでた。
多数派の中の少数派だから、自分がおかしいんじゃないかって思ってきた人も多いと思うけど、おかしくなんかない。むしろ正常。発達特性を持つ人は感覚の過敏を持つ人も多いけど、インプットが違えばアウトプットが変わるの当たり前じゃん。
みんなと違う見方ができるの、すごいじゃん。
みんな、嫌われたくないコミュニケーションをしてる。みんな変化を嫌ってるんだよ。自分さえよければいいんだよ。自分の意見を、自分の意思を押し込んでる。そんな意識で変化なんか起きない。
誰かの人生を生きちゃダメなんだよ。だって、そんなことできないでしょ。私もそれで二次障害になったんだから。人を満たす前に自分を満たさなきゃいけなかった。
社会を変えようとしない。理解を求めようとしない。分かろうとしない人って絶対いるんだから、感覚が違うんだから、分かるわけがないのよ。ホントの意味でなんか絶対分かんない。
変えられないところを変えようとしても無駄なんだから、変えられるところを変える。
自分の思考を変えてみる。罪悪感は幻想だと気づくこと。自己否定は自分が自分を否定しているんじゃないんだって気づくこと。被害者意識の根底には怒りがあるっていうことに気づくこと。
そういうのを手放して、自分がやりたいことをする。
最初は小さなことでいいから、自分のためにできることを、自分がやってあげる。自分のために選択をする。そうすると、自分のまわりが変わってくることに気づくはず。
もし外側の世界が変わったと思ったなら、それはあなたが変わったからだよ。
相手は自分の写し鏡。
社会を変えようとしない。自分が変われば自ずと社会も変わっていく。
この世の中は神秘的で、不思議で、素敵なんだよ。私たちの知らないことがまだまだたくさんあるんだよ。
今日楽しかったら、明日も楽しい。そんなふうに生きていく。すべてはエネルギーの流れ。重いエネルギーは手放していこう。軽く、軽くいこう♪
もっと楽しんで生きていこう✨