なつこの想いを言葉にするブログ

ADHD(診断済み)なつこが生きやすくするためにしてきたこと、感じていることなどを言葉にしていきます。

なにを信じているか

診断を受けていない大人は山ほどいます。

生きづらさを抱えている大人は山ほどいます。

間違った信念を抱いている大人は山ほどいます。

 

自分が何を信じているのか、思考の棚卸しをする。

 

X (旧Twitter)で、あこ社長がポスト(ツイート)していたので抜粋。

 

 

みんなと仲良くしよう

苦手を克服しよう

努力は必ず報われる

話し合って解決しよう

制服を着て全員おなじ格好をすること

 

 

私は全部信じてました。昔は保守的だったんです。

苦手な人がいても、おなじ人間なんだから、おなじ日本人なんだから分かり合えるはず!って思ってたし、

努力すれば幸せになれるって思ってた。

みんなと合わせることがいいことなんだって思ってた。

 

そんな信念を持ってたから、鬱になった。

 

本当は、

 

 

苦手な人とは距離を置こう

苦手を克服しても普通にしかなれないので得意を伸ばそう

間違った努力は報われない

世の中には話が通じない人もいる

個性を認めよう、違う人を受け入れよう

 

 

こういうことを知っていたら、人生が全然違ったと思う。

だけど、私は鬱になってよかったと思うし、鬱を経験したからこそ、今のような発信ができてる。もう二度と鬱にはならない。しんどいもん。鬱に足を突っ込んだとしても抜け出せる。一度経験してるから。

 

なにを信じるかって、本当に大事。

 

そんな動画もあげているので、ぜひご視聴ください♪

https://youtu.be/_wvvT-BG91Q?si=nW4ZFe3bmuCFlDR6

 

 

 

 

 

 

 

 

マッキンゼーモデルというのを知ったよ

マッキンゼーモデルとは、自分で問題を作って、自分で解決案だして、自分で受け取る。

 

「ある」といえば儲かるけど、「ない」と言ってしまったら儲からない。

儲かるか、儲からないか。必要か、必要じゃないか。

「ある」ことにしておく。

 

そうか。それで考えたら「発達障害はない」と言ったら製薬会社が儲からないのか。

製薬会社のチカラと過剰な診断でADHD患者は激増していると、2013年の時点で既に言われていた。

DSM (Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders精神疾患の診断・統計マニュアル)の委員会のメンバー170人のうち95人、56%は製薬会社と金融的な関係があることも発見されたとか。

 

メディカリゼーションの考え方にも近いかな。メディカリゼーション(医療化)とは、医療的問題とされていない領域(社会的、道徳的に望ましくないとみなされた行動・嗜好など)が、次第に社会的に病気と定義され、診断・研究・治療・予防といった医療の対象になっていくことを指す。

 

だってだって、ADHDって症状あるじゃん。そんな言葉が聞こえそう。私も最初はそう思ってた。

 

症状とは、病気・きずの状態。

特性とは、特有の性質・特質。

 

ADHDは病気ではないし、脳の特性。でも、社会によって、常識によって生きづらくさせられて二次障害(鬱など)になってしまう。

ADHDの、もともとの性質、特質と、二次的な症状を分けて考える必要がある。

 

以下は一般的に言われているADHDの【症状】

 

  • 重要な用事でも期限を守れない ...
  • 物事を順序立てたり、やり遂げられない ...
  • 必要なものをなくす、忘れ物が多い ...
  • そわそわと手足を動かす ...
  • じっと座っていられない ...
  • しゃべりすぎることが多い ...
  • 衝動買いが多い ...
  • すぐにイライラする

 

 

以下は、ADHDの【特性】

 

ADHDは興味のあることにはとことん没頭することができる。今の教育は押し付けで学習指導要領に沿わないといけないので興味が湧くはずもない。

興味がないことには注意を向けられないから注意力散漫と言われてしまうけど、本当はものすごい集中力を持ってる。

 

空気が読めないというのは、物怖じ(ものおじ)しないということでもある。

 

忘れることも確かに多い。だけど、忘れるから新しい情報を取り込める。

 

じっとしてられないのは、エネルギーが有り余ってるから。昔は野山を駆け回れたけど、今の社会では子どもたちの管理が過剰になっていると感じる。見守りというなで。送迎とか。

 

突発的な言葉が多いのは、直感力に優れているから。

 

あちこち動くのはフットワークが軽いから。

 

 

 

ADHDの特性は、成功者に共通する(だからと言ってADHDが全員成功するわけではない。ひとりひとり成功の定義が違うし、価値観もそれぞれだから)

 

 

二次的な症状と特性をごっちゃにしない。

忘れ物がひどいのはストレスによって前頭葉が萎縮してるからかもしれない(脳)

すぐに取りかかれないのは完璧主義が行きすぎてるからかもしれない(認知)

自傷、他害は、自分のキャパシティを超えてしまっているからかもしれない(感覚)

 

すぐにイライラするというのは、負荷がかかっている状態。発達特性を持つ人は感覚過敏(感覚鈍麻)も持ち合わせてる。普通の人はなんとも感じないけど、聴覚過敏には耐えられないくらいうるさい環境かもしれない。視覚が敏感でLEDが眩しくて頭痛がするのかもしれない。

 

忘れるっていうのも、学校の先生は目的ではなく原因を見てしまう。どうしたら忘れないか。そのアプローチ(晒す、連帯責任にする)で子どもたちは苦しむ。忘れたんなら、じゃあどうする?解決能力を鍛えてあげたほうが社会に出たとき、絶対役に立つ。

 

間違ったアプローチをするから問題行動が出る。障害とするから、その子がおかしいんだってなる。治さないといけないってなる(特性は治すとかじゃない先天性のもの)

 

だいたい、特性ってのは濃い薄いあるけど、みんなが持ってるもの。なんで分けちゃうの?自分とは違うって意識が働いて、差別につながる。

 

 

この社会は多数派が生きやすいようにできてる。いや、今はもう多数派も生きづらくなってるかもしれない。発達特性を持つ人たちが生きづらいというのは想像に難くない。発達障害は脳の特性。発達特性なんだよ。

 

 

 

障害の概念のない世界をつくる。罪悪感や自己否定を手放してみんなが軽く生きられる社会にしよう。

 

 

 

 

 

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私も参加します!楽しもうね♡

あせるような出来事に直面した時ほど、落ち着け。

今日は鹿児島行きの飛行機に乗り、桜島へ☆

 

昨日は台風。全然台風らしくなかったねー、って、なつおと話をしながら自宅を出て駅に送ってもらった。

少し余裕を持って出発したものの、初っ端から普通→準急に乗り換えるのを忘れたり、日暮里から乗るスカイライナーにチケットが必要だということが判明したり…

 

 

心がざわざわ。

事前に買ってない。当日に買えるのか??

 

でも、あせる状況であせっちゃうと、ロクなことがないって少し前に体感したことがあったんだよね(これも電車の乗り換え案件)

 

これは…試されてるな?このあせりしかない状況で、いかにあせらないかが試されてる。

まず、深呼吸。なって欲しくない現実にはフォーカスせず、行く、絶対行く。と強く念じて、天使からのサポートもお願いする。

とりあえず、別ルートを検索。

 

 

スカイライナーに乗れないとなると、別の電車を利用して空港第2ビル駅に着くのは…7時33分。フライトの30分前を切っちゃう(8時の飛行機)

「飛行機30分前間に合わない」で検索したら、予約変更?取り消し?あわわ💦あせる、あせる。

 

「寝ないで行く」と言っていたKAZUOさんの心配をしている場合じゃなかった。私が一番ヤバい。

最初のミスでかなり時間が押している。行けない選択肢は無い!ってくらい行きたい。

でも、あせらない、あせらない。大丈夫、大丈夫。ドキドキする胸をしずめながら、深呼吸。

 

大丈夫。何か方法はあるはず。だって私、鹿児島行くんだもん!

 

とりあえず、山手線で日暮里へ。日暮里到着が7時8分。フライトの1時間前を切ってる。

とりあえず京成線を探して、券売機に並ぶ人たちを見つける。あれ?スカイライナー?ワンチャン行けるか?

券売機の横には、発車4分前まで購入可能の旨が書いてある!!わぉ☆発車の9分前!!

 

このときの私の安堵が分かる??も〜ホント良かった😭

 

7時10分に空港第2ビル駅に着くも、駅から第3ターミナルまでが地味〜に長くて、、チェックインがフライトの34分前。

 

そのあとの荷物検査(保安検査)はめっちゃごちゃごちゃしてるし。

 

搭乗口から飛行機まではバス。

 

完全に安心できたのは飛行機に乗って座席に座ったとき。あ〜〜、朝からめっちゃエネルギー消費したぁ〜!

 

せっかく桜島行けるんだもん!!めっちゃ楽しんでくるねー❣️✨✨✈️

 

 

社会をどう変えるか?→社会を変えようとしない!

社会を変えたいのに、社会を変えようとしないとは??

 

 

初っ端から混乱させる感じになっちゃったけど、理由はあります。

 

私が少し前に執筆させていただいた機関誌に、すごく興味深い内容が書かれていたので、それについてお話するね。

精神保健福祉 日本精神保健福祉士協会誌 (通巻134号)

 

 

たとえば、学校でメンタルヘルスリテラシー教育をして、精神疾患自体に対する知識や態度は向上するけど精神疾患の当事者に対する態度態度は、むしろ悪化させる研究報告もあるそうで、

また、最近よくあるバーチャル機器を用いた症状の疑似体験。これも、理解や共感が期待される反面、当事者に対する否定的態度が大きくなる懸念が示されているそう。特に社会的距離については、症状の疑似体験後に悪化する可能性が報告されているとのこと。

 

 

本来であれば、日常の生活の中で学んでいくのが望ましい。だって、関わり方を自分で学んでいくことになるから。

障害について学ぶことが悪いと言ってるわけじゃないよ。でも、座学で障害の何が学べる?学校教育から障害のある人と学校を分けられて、生活のなかで学ぶ場を奪われてる。発達障害って診断されてる子どもも増えたけど、学校では生きづらいだろうなって思う。いまだ全体主義だから。社会よりも学校が遅れてるから。

障害をもっていたとしても人なんだよ。人との関わりなんだよ。この障害を持ってる人にはこう!って単純なものじゃない。

 

理解する人は理解するし、理解できない人は理解できないよ。理解を強要しない。理解できない人をなんとかしようとしない。理解できない人はダメとかじゃない。

いまの教育は、評価があるのがおかしいと思う。うまく伝えられるかわからないけど、できないからダメ、じゃないんだよ。1+1=の答えがわからない子がいたとする。もしかしたらもっと深いところでわからないって言ってるのかもしれないじゃん。そうすると、その子に「できない」レッテルを貼ると、その子のチカラを奪っちゃうことに繋がるんだよ。

 

できることがいい、できないことが悪い、理解できるのがいい、理解できないのが悪い、みたいになっちゃう。二元論。理解の押し付けかなって。

 

 

 

じゃあ、どうするかって?コミュニケーションだよ。私たちが言葉を取り戻す。

 

社会を変えようとしない。私たちが言葉を取り戻せばいいだけ。

 

私は昔から怒られてばっかりで、理不尽なことも多くて、お腹の底に言葉になり損ねた想いをいっぱい溜めてきちゃってた。それが溢れ出ないように胸の辺りに鉛のような塊まで作って塞いでた。

 

多数派の中の少数派だから、自分がおかしいんじゃないかって思ってきた人も多いと思うけど、おかしくなんかない。むしろ正常。発達特性を持つ人は感覚の過敏を持つ人も多いけど、インプットが違えばアウトプットが変わるの当たり前じゃん。

 

みんなと違う見方ができるの、すごいじゃん。

 

みんな、嫌われたくないコミュニケーションをしてる。みんな変化を嫌ってるんだよ。自分さえよければいいんだよ。自分の意見を、自分の意思を押し込んでる。そんな意識で変化なんか起きない。

 

誰かの人生を生きちゃダメなんだよ。だって、そんなことできないでしょ。私もそれで二次障害になったんだから。人を満たす前に自分を満たさなきゃいけなかった。

 

 

社会を変えようとしない。理解を求めようとしない。分かろうとしない人って絶対いるんだから、感覚が違うんだから、分かるわけがないのよ。ホントの意味でなんか絶対分かんない。

 

変えられないところを変えようとしても無駄なんだから、変えられるところを変える。

 

自分の思考を変えてみる。罪悪感は幻想だと気づくこと。自己否定は自分が自分を否定しているんじゃないんだって気づくこと。被害者意識の根底には怒りがあるっていうことに気づくこと。

そういうのを手放して、自分がやりたいことをする。

最初は小さなことでいいから、自分のためにできることを、自分がやってあげる。自分のために選択をする。そうすると、自分のまわりが変わってくることに気づくはず。

 

もし外側の世界が変わったと思ったなら、それはあなたが変わったからだよ。

 

相手は自分の写し鏡。

 

 

社会を変えようとしない。自分が変われば自ずと社会も変わっていく。

この世の中は神秘的で、不思議で、素敵なんだよ。私たちの知らないことがまだまだたくさんあるんだよ。

 

今日楽しかったら、明日も楽しい。そんなふうに生きていく。すべてはエネルギーの流れ。重いエネルギーは手放していこう。軽く、軽くいこう♪

もっと楽しんで生きていこう✨

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

不登校になっても自分を責めなくていい理由

なんで学校に行けないんだろう、行かなくちゃいけないってわかってるのに。

学校に行こうとすると身体が重い、しんどい、つらい。

 

朝、子どもが起きない。学校に電話しないと…

明日は学校に行けるかな

 

不登校になったきっかけはそれぞれ違っても、エネルギー不足で動けなくなってるのは共通。怠けてるんじゃない。学校が苦痛なの。それを、エネルギー枯渇するまで頑張って通ったの。もう学校に行く元気がないの。

 

親は、学校に行って欲しいと思うよね。学校に通うのが「普通」だもんね。でも、学校は多数派には行きやすい場所だけど、少数派にはつらい。発達特性があるってことは、何かしらの感覚過敏を持ってる。

聴覚過敏かもしれないし、視覚過敏、嗅覚過敏、味覚過敏、触覚過敏かもしれない。

みんなが大丈夫なことが苦痛で、訴えても「みんなそうだよ」と一般化されてしまう。理解されないことについては、怠けだとか、わがままだとか言われてしまう。

例えば、ノイズキャンセリングイヤホン。ノイズだけ消してくれる優れものだけど、許可されなかった話はよく聞く。イヤーマフはずっとしてると締め付けで頭痛くなるし、ノイズとともに人の声も遮られちゃうからね。

あれかな?メガネはいいけどコンタクトはダメみたいな感じなのかな。

音楽を聴いてるように見えるからとか。そう思うの年配の先生だけやろ。せっかく使える良いものがあっても使えないとか、合理的配慮とはなんなんだ??

社会がものすごく変わって、今も変わり続けてるのに、学校は何をやってるんだろう。

クラスのみんなに訴えれば子どもたちは理解示してくれるかもしてないのに、その前に担任が「それは甘えだ」とか、「一人だけ特別扱いはできない」とか言い出す。いやいや少数派だからつらいんであって、、合理的配慮ー!!

 

結局、先生は全体主義でしか考えられないのよ。だから多数派は学校に行きやすいけど、少数派にはつらいって、そういうこと。

 

理解してくれる先生がいればいいけど、いない場合は地獄じゃない?理解してくれないんだもん。理解されない環境にずっと行かされてみ?そんなの普通に病むじゃん。エネルギー枯渇するまで行くじゃん。登校できなくなるじゃん。二次障害になるじゃん。

 

なんとしてでも二次障害は避けないといけない。私は二次障害で鬱になったけど、ほんとうにきつい。休む暇なく不安に襲われるし、身体は動かないし、脳は休めない。

 

 

教育機会確保法っていうのがあってね、

(以下、教育機会確保法リーフレットより抜粋)

 

体調不良、いじめ、周囲になじめない…さまざまな理由で学校に行けなくなった子どもが、「休んでも良い」ということが、初めて法律に盛り込まれました。辛いときは、休むことが必要であることが認められました。(第13条)

 

教育機会確保法は、フリースクールや家庭など、学校以外の多様な学び場を選択できることが大切です。

 

令和元年10月25日の文科省の通達により、学校復帰」の文言がある通知は廃止され、「社会的自立」を目指すことが明記されました。

 

 

これらのことは、学校の先生は教えてくれない。というか、学校の先生は知らない。と言ったほうが近いかも。

 

だって、私が会ったなかでこれを知ってる先生に会ったことがないから。聞いたことあるって人はいたけど内容を質問すると、教育機会確保法の内容までは理解してなかったよ。

 

無理して学校に行くことで、二次障害になってしまったら、場合によっては社会的自立も難しくなるの。もう、学校自体が合わないんだよ。

 

学校に来なさいと言った先生?学校の先生がその子の責任なんて取れるわけないじゃん。取れるわけないのに過干渉だよね、学校復帰」の文言がある通知は廃止されてるのにさ、学校に来させようとするの。

不登校の定義に当てはまったら教育委員会に報告しなくちゃいけないからだと思われるけど。子どものこと、全然考えてない。自分のことしか考えてない大人が、何を教育できるっていうの?

 

 

ある意味、不登校で正解かもしれない。だって、おかしいって思えてるんだもん(頭じゃなくて身体でおかしいと思てる)比較と競争の社会で自分を失くしていって自己肯定感下げて、怒られて、やりたくないこと強要されて。一方的な価値観で勝手に評価つけられて。

 

今の教育のおかしさに気づかなきゃいけない。子どもは正しいんだよ。学校に行けないんだったら、それが正しい選択なの。ひとりひとりに正しさがあるの。否定しないであげて欲しい。認めてあげて欲しい。

 

変化が激しい今の社会で、学校で習ったことがどれだけ役に立つ?悪いけど、ほとんど役に立たないと思う。

それよりも、自分の興味があることを貫いたほうがよっぽど将来のためになると思うんだよね。

 

親もふと不安になっちゃうこともあるかもしれないけど、社会の戯言だから、気にしない練習を繰り返そう。

 

子どもも親も、自分を責めなくていいんだよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

学校に行かなくても大丈夫。夏休みが終わるので「教育機会確保法」を。

 

 

今朝のX(旧Twitter)で、夏休みが終わり、すでに登校している子も少なくないと知ったので、学校に行けない子、行けない子の保護者さんに届け☆と思って記事を書きました!

きっかけになったこど看さんの投稿はこちらです↓

 

 

 

 

 

 

今、学校に行くのがしんどいっていうお子さんもいるかも知れない。子どもが学校に行かないことで苦悩している保護者さんもいるかも知れない。

苦しいんだったら、学校に行かなくていいよって、強く言いたい。いくつか理由を述べますね。

 

まず、学校っていうのは多数派に合わせて作られています。正規分布図で言うと数が多い部分です。

学校が合わない人っていうのは、正規分布図の両端の人たち。発達障害という言葉も聞き慣れてきましたね。特性として感覚過敏が挙げられるのですが、周りや先生に理解されず、問題児とされてしまう子も多いです。適応しようと頑張って、潰れてしまう子もいます。誰にも理解されず自死を選ぶ子どももいます。(自死を選ぶ子どものなかには性自認が自分の身体と異なるなど、いろんなパターンがあると思いますが、今回は発達障害ベースで話を進めます)

 

発達障害と言っても、その子が持ってる過敏さ(または鈍麻さ)は、聴覚過敏、視覚過敏、触覚過敏、味覚過敏など、それぞれですし、複数持ち合わせている子もいます。感覚過敏があると通常の学校生活はかなり疲れます。娘の場合は、聴覚過敏があるのですが学年が上がるごとに学校に行けない日が増えていきました。

 

このような過敏さを持たない人には、感覚過敏のつらさが理解されないことがあります。こんなに発達障害という概念が広まってもなお、怠けだとかわがままだとか言ってのける教師がいるのには驚きます。学校に行けなくなる子どもはHSPである場合も多いですが、教師のそんな言葉を耳にして、そんな場所に毎日行ってメンタルを保てる子どもはどれくらいいるでしょうか。

 

会社で言えば、ブラック企業です。頑張ってもみんなと同じにできない、毎日心無い言葉をぶつけられる、感覚過敏なので多数派と感覚が違うため自分がおかしいと感じてしまう。つらさを言語化しても、怠け、わがまま、気のせいだよと言われてしまう。理解できないのに、「言ってくれなきゃわからないでしょ?」と言う。子どもが言葉を発しないのは、理解してもらえないとわかっているからではないでしょうか。

ただその地域にいるというだけで通う学校が決まり、クラスが決まり、クラスメイトを「お友達」とされてしまう。仲良くすることを強要される。

理解してくれない人に囲まれた環境で、精神を維持する大変さ。大人は耐えられるでしょうか?

 

子どもが担任に訴えても、一人だけ特別扱いはできないとか、みんなも頑張ってるんだからもう少し頑張ろ?とか、いじめられるあなたにも原因があるとか、

 

さらには学校ぐるみでの加害者擁護、不登校をあの手この手で学校に来させようとする(それが子どもも保護者をも苦しめるのですが、)不登校の定義は30日以上学校に来ない子を指します。

 

私と娘が下校時刻が過ぎてから、プリントをもらいに行った際、担任によって、しれっと遅刻扱いにされそうになりました。学校の先生は不登校児童の教育委員会への報告義務があるようなのですが、それを避けるために、登校扱いにされるのは腹が立ちます。

 

校門から敷地内に一歩入っただけで登校扱いという話も聞きます。

 

なので、実質、不登校は認知されている数よりももっともっと多いと思います。

 

 

私は、社会に出たほうが生きやすいと感じます。働く場所は自分で選べます。困ったことがあれば上司に相談することもできます。合わなかったら部署を変えてもらうこともできます。

 

でも、学校で我慢することを学んでしまったら、社会に出て、会社が合わなくても辞めるという選択肢が出てこないし、困ったときにSOSも出せず、結果二次障害に繋がってしまうと思います。

学校になんとか適応できても、社会に出る頃にはエネルギーが枯渇してしまうかもしれません。

 

何のために学校に行くのか。学校は学ぶための一つの手段に過ぎません。

学校が全てではありません。

 

つらい、苦しいという言葉に、みんなつらいなか生きてるんだよとか、みんなそうだよ、とか言ってないですか?その言葉を間に受けた子どもは適応障害を起こすほど頑張ってしまうかもしれません。鬱になってしまうかもしれません。ベースに発達障害があって、鬱になる。これを二次障害と言います。こうなったら、学校には行けませんし、お風呂も入れなくなるでしょう。好きなこともできません。本人も生き地獄です。サポートする保護者にも相当な負担がかかります。

 

子どもがSOSを出したときは、つらいと思ってるんだね、苦しいって思ってるんだね、がんばってきたね。ありのままを受け止めて欲しいです。子どもにとって、安全な場所があることが大切です。

 

 

最後に、学校の先生が絶対に教えてくれない「教育機会確保法」をお伝えします。(今まで出会ってきた先生方は、教育機会確保法を知りませんでした。まれに教育機会確保法を聞いたことがあるという方がいらっしゃいましたが、内容を理解はしていませんでした。これじゃあ教えようがないですよね。)

 

 

教育機会確保法

 

1、休養の必要性

体調不良、いじめ、周囲になじめない…さまざまな理由で学校に行けなくなった子どもが、「休んでも良い」ということが、初めて法律に盛り込まれました。

 

2、学校以外の学びの場の大切さ

フリースクールや家庭など、学校以外の多様な学び場を選択できることが大切です。

 

3、「学校復帰」ではなく「社会的自立」

令和元年10月25日の文科省の通達により、「学校復帰」の文言がある通知は廃止され、「社会的自立」を目指すことが明記されました。

 

 

 

 

これは、登校拒否・不登校を考える全国ネットワークが作成されているリーフレットからの抜粋です。ダウンロードも出来ますので一度、目を通していただきたいです。

 

 

 

無理して学校に行かなくていいんだよ。

自分が壊れちゃっても、先生も誰も、周りは責任をとってくれないんだよ。

自分を大切に。

 

障害とは…

 

自分の能力を上げるんじゃないんだよ、能力の自己評価を上げればいい。

今どうかじゃないんだよ、未来にどうなりますかということ。 だから、学校の成績が30点の人でも、能力が自分で高いと思えれば、充分だ。 今は自分らしくないから30点なんだ、本来の自分はそうじゃないと思えばいい。そういう人は障害じゃない。

 

自己評価は誰でもすぐに上げられる。この答えは本当に簡単です。上げればいいだけ。 そもそも、評価とは、客観的な何らかの基準があって、それに比べて上か下かと思っている人が多い。

たとえば、障害だったら、これは正しいとか、ここから障害です、とか。それは完璧間違い。ひとつの基準はないんです。

それは1987年に、数学では証明済み。不完全性定理っていうのね。 1932年にゲーデルっていう人が発表して、1987年にこの世の知識すべてに対して、証明が終わりました。これは、簡単に言うと完全なシステムはないっていうこと。 どんなシステムにも必ず、矛盾が内包される。ひとつの正しい基準は絶対にありませんということです。それが、ようやく20世紀の終わりに証明された。

だから、20世紀以前の人たちがそう思っていたらしょうがないけど、今の人たちは1987年以降の人たちがほとんどでしょ。それ以降の人たちは、この世にひとつの基準はないってとこから始まってる。 ということは基準さえ存在しないということ。

 

他人がどう思っているとかまったく関係が無い。自分が障害じゃないと思えば障害じゃない。自分が障害だと思った人は障害。

 

 

 

認知科学者・苫米地英人さんが語る「ブスとは…」本文をブス→障害に変えたら違和感が全くなかった。障害とは何か?がうまく伝われば良いなという想いです。

 

ADHDなつこ