不登校30万人のニュースが流れたのは2023年の11月。
私の娘は小学一年生の頃は楽しく通えていたものの、学年が上がるにつれ徐々に行けなくなってしまった。小学校最後の学年では月に一度プリントを取りに行くだけだったのだけれど、危うく登校扱いにされるところだった。(プリント取りにきた日は遅刻扱いにしておきますねー。とサラリと言われたので、下校時刻も過ぎていますし遅刻扱いにしなくて結構です。と言ったにも関わらず、夏休み前に通知表を渡された際、出席扱いにされていたのでその場で訂正するよう求めました。実際訂正されたのか、フリをされたのか定かではないが、担任信用できなくなるの、そういうとこだぞ!!)
不登校には定義があって、連続して30日以上欠席した児童生徒としている。そのため、日和見登校や、校門タッチ、月に一度プリント類を取りにいくなどしている児童生徒はそれが登校扱いになっていると30日に満たなくなり、不登校の定義から外れてしまう。
娘が学校に行けなくて体を張って不登校してるのに、不登校にカウントされないことが、娘の意思を踏みにじっていると思ったし、学校側が評価を気にして娘を少しでも登校扱いにしようとする魂胆にも腹が立った。
過去の私の配信で不登校の話をした回があって、そのときに
「子どもが悪いなんてことないやろ!!」
ってことを言ったけど、あれから色んな本を読みあさって、ほんとに子ども悪くないじゃん!!と思ったので、いくつか書籍を引用しつつ紹介したい。
「アーベル指輪のおまじない 登校拒否児とともに生きて」横湯園子 著
ところで担任はといえば、感性が固いというのか、康夫のこのような心情を理解するのに時間のかかる人で、「手を上げる時は声を出さずに静かに上げる」とか、机の上の教科書、ペンケースやノートはどの位置に置くべきであるなど、「生徒は〇〇であるべき」傾向の強い人であった。
康夫の引き起こす行動の取り扱いについても一貫性がなかった。もっとも一貫性のなさの背景には他の親たちへの気づかいや他の教師たちの評価が気になって、ついとりつくろってしまうという側面があり気の毒ではあったが。それだけに康夫は担任をはじめとした教師たちが自分をどのように思っているかを過剰に気にして、「お前ら、本当はおれのことをどう思ってるんだ」と試していたところがあった。
また、悪いことに生徒指導と称してさまざまな教師が彼と話をし、彼の訴えを聞き、「そうだったのか」「わかった、わかった」と言いながら、集団場面では彼を押さえにかかるということが日常的に起きていた。それがまた、彼の不信感と絶望感を高め深めていくという悪循環を生じさせていた。これに学級と地域の保護者が集りを持ち、
康夫の親と連絡を取ったり、学校に意見を持ってくる。
(中略)
このような教師の対応や親たちの動きは、康夫の時だけでなく他でもよくあることで、「問題児は仕立て上げられていくんだなあ」とうなってしまうことのなんと多いことか。
(引用終わり)
この、担任がしたような一貫性のない対応は、しばしば子どもを混乱(暴れ)させる。担任自身が「ねばならない」に縛られ、自分に非があっても謝ることができず、事態を重くしてしまう。結局この担任は役割期待に対して過剰遂行し、教師としての自信を失くし、うつ的になってしまう。
「禁じられた知 精神分析と子どもの真実」アリス・ミラー 著 山下公子 訳
両親のうちどちらか一方について、分析の間中否定的な面ばかりが強調され、はるか後になってやっと肯定的なところも認められるようになるということもよくあります。この変化が意味しているのはたいへん単純なことで、つまりそれまで「魔女」だとか「暴君」という名を冠せられ、そういうものとしていわば凍りついていた姿が、多面性を持った人間として認められるようになったのです。それはまさに患者が感じることができるようになり、自分のなかで否定、肯定の両面を生きられるようになったからにほかなりません。
(引用終わり)
「魔女」だとか「暴君」という名を冠せられていた子ども。先に引用した康夫も「問題児」という一面性だけで捉えられている状況は共通してる。一方的な見方や固定観念に縛られることなく、子ども自身が持つ複雑な感情や背景を理解しようとする姿勢が大切なんだけど、「問題児」とされる子どもたちが抱える困難やその背景には、環境や周囲の大人たちとの関係性が深く関わっていると考えて良い。康夫が担任や他の教師たちに対して抱いた不信感や絶望感は、どこに吐き出したらよかったのか。
アリス・ミラーの言葉にもあるように、子どもが「魔女」や「暴君」として扱われることは、その子どもが持つ多面的な人格を見落とすことに繋がる。
学校側はしばしば不登校の原因を家庭に問題があるとするが、康夫のような子どもが学校で苦しむ背景には、教育現場の比較と競争の価値観や、全体主義、教師自身が抱えるプレッシャーが影響していることも視野に入れたい。
結局のところ、子どもが「問題児」とされる原因は彼ら自身にあるのではなく、周囲の大人たちが持つ先入観や対応の仕方にある場合が多いといえる。
子どもが悪いのではなく、その子どもを取り巻く環境や人間関係が問題を引き起こしている、という視点を持つことが、この問題を解決するための第一歩となるのではないか。
そのうえで、学校というシステムに疑問を持ち、就学は親の義務であると知るとともに、子どもにあるのは学ぶ権利だと知ること。学校に行けないのであれば別の選択肢(学びの方法)を知ること。
教育機会確保法を知り、不登校は問題ではないことを知ること。
親は子どもが学校に行けないことで苦しむが、その感情を子どもにぶつけない。その感情は親のもので、子どものものではない。子どもは子どもで自分の感情と向き合ってる。自分の感情の処理は自分にしかできないと知ること。
「アーベル指輪のおまじない 登校拒否児とともに生きて」のなかで、不登校の子どもが再登校する記述がある。不登校から再び学校へ通うようになった子どもたちは、無表情でかつてのイキイキした姿が失われてしまった。著者も、
この少女たちは「治す」対象だったのであろうか、と改めて私は自分に問わねばならない。そして親にも学校にも同じ問いを返さねばならないのではないだろうか、と考えるほど素敵な少女たちだったのである。
(引用終わり)
と述べている。
この書籍は1992年初版発行、つまり32年前に書かれたもの。にもかかわらず、学校は何も変わっていないと思わざるを得ない。
私が変わったと思うのは、教育機会確保法ができたことと、発達障害が社会に浸透し今も右肩上がりに増えているということ。
しかし、教育機会確保法の認知は広がりを見せない。これを知ったなら心の負担が楽になる親もいるはずなのに。
教育機会確保法の詳細は、わかりやすいリーフレットがあるので説明はそちらにお任せするとして(https://futoko-net.org/wp/wp-content/uploads/2022/01/9d33b46d877b26f5ef41bd0240f9cffb.pdf)
不登校になった子が発達障害と診断されていくことについては言いたいことはたくさんある。
アダルト・チルドレンという言葉は、もともとはアルコール依存症である親のもとに生まれて成長し、アダルト(大人)になった人、という意味で、はじめはアルコールの問題が語られる。だけどこの問題(アルコール依存症)が発達障害と本質的に重なる部分が多く、この書籍のなかには、私が伝えたかったことが詰まってると感じた。
発達障害の子が問題なんじゃない。困りごとがあるから障害なら、先に困ったのは教師の方だよ!よって、教師が障害!(暴論!)ってことになるでしょう?
でも、私が言ってることはわかるでしょう?なーにが困りごとがあるから障害だよ!比較と競争の価値観。共存したい子からしたら価値観が合わない、ダイバーシティが叫ばれているのに全体主義を貫いている教育システム。担任ひとりで手に負えないなら、助けを求めて専門のスタッフをつけてもらうなり、アドバイス求めるなりすればいいのに、一人で抱え込もうとする。そして児童生徒を発達障害とすることで個人の問題としてしまう。
その一方、アルルコール依存は、本人だけの問題とはしない。
「アダルト・チルドレン 自己責任の罠を抜け出し、私の人生を取り戻す」信田さよ子 著
飲んでいる本人は気持ちがいいものです。そして、飲んでいるときにやめさせようとする人は、飲んでいる人にとっては敵になります。「どうして酒を飲むの?」と言うのはまったく無駄であるばかりか、やめさせようとする人自身も傷つきますので、家族のごたごたがさらに大きくなります。それよりも、「夫が飲酒をやめないので困っている」という人が援助対象になればいいのです。
困っている人がクライエント。ーーこれが、私たちのアルコール問題の対処の基本でした。これを基本にして、家族に対してまず介入をしていくことになったのです。
(引用終わり)
これを、「飲んでいる本人」→康夫、「やめさせようとする人」→担任 として置き換えてみると、困っている人が担任だということがわかる。「康夫が問題行動をするので困っている」にもかかわらず、康夫が教室のなかでスケープゴートとなる。康夫個人の問題とされる。
クラスに介入して問題を見極めないといけない。教師の言葉で傷つき、暴れれば問題児とみなされる。今の時代であれば、ADHDとレッテルを貼られてしまうこともある。残念なことにそれが投薬につながってしまう。このような子どものなんと多いことか。正常な子どもが、このようにして障害にされていく。劇薬を飲み続けながら学校に通うことになる。
このことは、ひとりひとりが気づいていくしかない。発達障害とは?なにこの曖昧な障害。子どもを一面的に捉え、問題児扱いするのが教師の仕事?学校が発達障害を生みだしているというのも納得する。
学校の環境は、子どもたちにとっても教師にとってもどんどん過酷になっていく。子どもは十分にがんばっている。子どもも尊重されるべきだし、子どもと関わる仕事をする人も余裕が必要。しかしそうなってはいない。
社会に出るときに子どものエネルギーが枯渇していたら、なんのための学校だったのか。学校復帰より社会的自立。令和元年10月の文科省の通達により、学校復帰の文言がある通達は廃止され、社会的自立を目指すことが明記された。
教師も親も、子どもの多面性に目を向け、子どもの将来の芽を摘まずゆっくり育てていってほしい。
最後に、「自閉症だった私へ」ドナ・ウィリアム 著 河野万里子 訳 この書籍から、一面性から多面性に気づく記述を紹介したい。
よその家に行ったわたしはいきなり「わあ、ここ、汚い」と大声で言い、しかもその家の主人が片腕だけだったのを見て「あなたは手が一本しかない」としつこく本人に教えてあげ続け、親に平手打ちされたのだ。だがこれが、わたしの典型的な振る舞い方だった。そのためわたしは次第に、無礼で、人の気持ちを何とも思わずものを言う子だと言われるようになった。だが、後には、この全く同じふるまい方が「自分の思ったことを、決して恐れず率直に言う人」のものとして、尊敬を得るようになったのである。
(引用終わり)
つまるところ、学校という狭い空間での教師による支配と言っていい。教師は子どもの欠点をみる癖がある。それを子どもに指摘していく。康夫のケースでもそれは如実に現れていた。そうではなく、子どもの良いところを見るようにすること。大人同士だったら相手に対して欠点なんて言わないでしょう。子どもを尊重していない。
子どもの頃に問題児とされていた人が大人になって活躍できるようになるのは、感覚が統合されたことや、いろいろな価値観に触れ、自分自身を捉え直し、肯定していくという過程をたどった結果ではないか。
そうやって、自分自身を肯定できたらいいけれど、今は発達障害というレッテル貼りの時代。一度貼られたレッテルはなかなかはがせない。2006年には7000人余りだった発達障害が、2019年には7万人を超えた。これは異常事態だ。薬(しかも劇薬)の処方は右肩上がり。精神の薬のほとんどは劇薬。それを本人も親も添付文書を読まずに医者に言われるがままというのは主体性に欠ける。薬を飲むというのは自分を否定すること、脳も傷つける。ADHD治療薬で治療なんてできない。特性を消すことができるだけ。強みが摘まれてしまうんだよ。製薬会社だって慈善事業ではない。医療はビジネス。そんななかに、子どもを放り込むようなことはしないで欲しい。
長くなりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。
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