まず、正しさってなんですか。
学校では答えや正しさを詰めこまされるけど、この世の中、答えが一つじゃないことの方が多いんです。それこそ人の数だけ正しさがあります。
学校に行く、行かないもそう。結婚するしない、子どもを産む産まない。先生が言ったから正しいんじゃなくて、先生はそれを正しいと思っている。私はそうは思わない。
でも、先生は自分の信じる正しさを押し付ける。別に先生じゃなくても親でも友達でも社会の観念でもなんでもいいんですけど、ここで認知のズレがおきます。
ここでちょっと認知的不協和の話に移ります。
認知的不協和は、米心理学者レオン・フェスティンガーによって提唱された考え方。
認知的不協和が起きると不協和を低減する行動が起きるということ。
矛盾した2つの認知がある場合、その不協和を解消するために、比較的変えやすいほうの認知変をえて、協和している状態にしようとすること。
比較的変えやすいほうの認知を変えて、協和させるよう働く。
発達障害の生きづらさはまさにこれだと思います。自分が正しいと思う気持ちを殺してしまう。自分の内側にある正しさを押し込めて先生や親が言うことを迎合してしまう。
「自分は間違っています。学校が、先生の言うことが正しいです。」ということにしてしまう。
我慢の先には我慢しかないので、吐き出せない自分の思いや、モヤモヤした言語化されないものも溜まっていきます。そうすると体にも症状が出てきます。胸のあたりに黒っぽくて鉛のような塊があるような感覚があると二次障害はもうすぐです。
障害って、なんなんでしょうね。
ここで障害の定義を見ていきます。「障害者差別解消法」では「身体障害、知的障害、精神障害(発達障害を含む。)その他の心身の機能の障害がある者であって、障害及び社会的障壁により継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける状態にあるもの」と定義しています。
障害及び社会的障壁により…
社会的障壁によるものなんですよ。
私は二次障害で苦しんでいたとき、障害って自分に非があるものだと思っていました。ADHDでASD傾向があって、ウツで、もう生きていけないと思いました。鬱のどん底になった時、鬱になる私が普通で鬱になるような社会なんだって思いました。そこから一年かからずコンサータを含むすべての薬をたつことが出来ました。
社会が間違っているというのが、私の正しさです。社会とはいわゆるヒエラルキーの社会です。歴史も、教育も、地球も。認知的不協和を感じますか。もやっとすることがあれば、一旦立ち止まって向き合ってみてください。
最後まで読んでいただきありがとうございました(^ ^)✨